みなさまご機嫌麗しう。こちらはここ数日快晴のブルックリンです。
2月に入り太陽も少しづつ高く昇り始め、アパートにも日が射すようになりました。
こうなってくると気分的にはホッとします。
と言うことでこのブログを初めたのが去年の7月。ただひたすら虚無の穴だの息子が2本だのアステカ人だの、とひどいブログをひたすら書き続けましたが、頭を強打したついでにふとこのサイトの本来の目的を思い出し、先日ようやくビンテージ商品をアップいたしました。
よろしかったらご覧ください。
とはいえまだ商品が一つしかありませんが。
まあいいんです。もともとも数があるものを扱うつもりもありませんし、本来がオタ気質なので、他の人が扱っているものは他の人に任せたらいいや、くらいの感じで考えておりますので、基本入手できる数はものすごく少ないんですよね、ハタが扱いたいものって。基本ニッチ。なので「毎日商品入荷中!」とか、そんな風には行かないわけです。だってそんなのめんどくさいし、腐んないからいいや、的な。
なので基本ここで扱うものは他のお店の方がほとんど扱ってないものをひたすら地味に、と言うことになりそうです。実際、ハタが個人的に「これは!」と思ったものでも、メルカリあたりにすでにいくつか並んでいるものであれば基本そこでボツ、と言うことにしています。だってメルカリで売ってるんだったらそこで買えばいいじゃん、みたいな。無意味に苛烈な競争に参加するほどハタは根性ありません。あくまでも隙間商法で。
ちなみにこの上のソヴィエト時代のコルク抜きも、探せばオンラインでいくつか情報を見つけ出すことはできますが、だからと言ってそう簡単に手に入るわけでもありません。実際出回っている数自体は世界規模で考えれば非常に少ないわけでして、ファイヤーキングのマグカップの数からしたら一万分の一くらの流通数です。そう言う意味では希少なものである、と言えると思います。まあ日本でもこれに目をつけたのはハタくらいだな、ふふん、と多少自慢しております。いいと思うんですけどねー、これ。どこかのお店のソムリエさんとかがこれでコルクを抜いているのとかをみたらお客さんは全員ツッコミ入れるでしょ?
そこで生まれる会話もあって。ついでに恋も生まれたりして、さらにダックスフントが大暴れして十月十日後に子供が生まれたり。ベッドにイエスノー枕が置かれたり。
ぶっちゃけこう言う趣味性の高いものにお金を払う、と言うのは無駄ですよね。日常生活でコルク抜きを使うにしたって、なんでわざわざこんなもんにお金を払って持つ意味あるの?って言われたら、正直
まああんまり意味はないな、と。
しかしですね。
ハタは南京都のブルーカラーの町の貧乏人の子供として育ちました。父と母がせっせと働いて子育てに学費に、とお金を費やしていただいたおかげで多少ちんちくりんながらも五体満足に育てていただきました。決して裕福な暮らしではありませんでしたが、それでも人様に蔑まれることもなく生きてこられたのは、父と母の懸命の努力のおかげだったのだな、と今となってはしみじみ感謝しております。
しかしそこには残念ながら生活を楽しむ、という余裕はありませんでした。結婚式の引き出物でもらってきたコーヒーカップ、近所のスーパーで買ってきた安いお皿、とりあえず着てたらそれでいいや、と言う程度の服、とりあえず安くて物が置ける、という意味しか持っていないカラーボックス。機能としてはなんの問題もなく使えるけれども機能以上の意味や価値はない、そう言うものに囲まれて生きてきました。そして近所に文化的な施設があるわけでもなく。あるのはパチンコ屋にラーメン屋、靴流通センターにすかいらーく、と日本の都市近郊の典型的な風景が広がっておりました。
で、こちらに来て、例えばアートギャラリーなんかにいって美術作品などを見ると常に疑問が頭をかすめるわけです。
なんでこんなものに金を払う人がいるんだ?
と。要するに自分には「なんでこんなよくわかんない紙切れを何千万も出して買う意味があるのか?」としか思えないわけですね。きっとそこに価値を見出してそれにお金を払う人がいるのに、その価値は自分にはわからない。その時に自分で思ったわけです。これはやばいぞ、と。
要するに、ハタは慎ましい暮らしで育った一方で、「文化的な豊かさ」に触れずにきた結果、「文化的な要素に価値(金)を見出せない人間」として育ってしまっていたわけです。それはつまり同時に、物事に対するより繊細な「見えない価値観」、つまり完成度や美しさ、人を惹きつける「美」そのものを余計なもの=お金の無駄、として排除するという意味でもあります。
こんな人間に文化やアートにお金をかける人の気持ちなんかわかるわけないし、
ましてこんな人間が「美」を作り上げることなんて不可能ではないか、と。
まあこの辺の話をしだすと長くなるので、適当に端折りますが、こんな危機感からハタはスタートして現在に至ります。確かに最低限の生活はお金はかからないし家計にも優しい。でも自分は運良くニューヨークにいるのに、まだ国道沿いの南京都の世界を生きるのか?と。もしそうだとしたら、それほど人生を無駄にしていることはないな、と。こうなってくるともう危機感しかありません。確かに自分がよくわからないものにお金を払うのは正直辛い。お財布も痛む。でも払うべきものに対価をちゃんと支払って何かを「経験」しないと、何もできなかった人生になってしまう!
それ以降、自分なりにできる範囲で「自分にとって納得のいくものを使って生活をする」と言うことを始めました。一言で言えばIKEAに行かない。日本で言う所のニトリです。
よくよく考えたらハタは生まれてこのかたニトリ=IKEAを越えた生活をしたことがなかったのです。他の皆様がニトリをどのようにお考えになるのかはわかりませんが、ハタにとってはニトリ=IKEAはまさに妥協の産物以外の何者でもありません。要するにデザインもそこそこ、値段もそこそこ、他にいいものがあるのはわかってるけどこれくらいでいいよね、という妥協の最大公約数。熱くもなく、冷たくもなく、まさに生ぬるいという言葉がぴったりの温度感。誰からも熱烈に好かれるわけでもなく、誰からも熱烈に嫌われない、というまさに計算された凡庸さ。IKEA=ニトリの心地よさはまさに最大公約数の心地よさです。
南京都の郊外で、ハタは良かれ悪しかれ何十年もニトリのゆりかごで心地よく揺さぶられてきて大きく育ってきました。正直こっちの方が気楽。お財布も痛まない、凡庸だけどそこそこ使い勝手もいい、、、、でもいい加減そこから卒業してもいいだろ、と。どっかの親戚の結婚式の引き出物のコーヒーカップを使い続ける人生が悪いわけじゃない。ニトリの製品が悪いわけじゃない。
でもニトリの向こうにある世界が見てみたい!
と。
背伸びなのはわかってるんです。でも背伸びしないと見えない世界もある。歳をとったら背伸びしてたら足がつるんですよ。元気なうちに背伸びしないと見えるものも見えなくなるし!
決死の背伸びの結果の一つ。天部像部分(室町時代)
とは言えこれでも大阪から青森を飛行機で往復するくらいのお値段。現代美術の作品買うことからしたらゼロが3つくらい少なくて済みます。
実際こうすることによってハタの人生が豊かになったのかどうかはよくわかりません。
が、数年経ってふと気がつくと身の回りのものの殆どが自分なりに納得して気に入ったものになりました。多分IKEAで似たようなものを揃えるよりは多少のたくさん金額は払っているかもしれませんが、ハタのピチピチとれとれのフレッシュな腎臓を売ったりしなくてもこのそこそこ自分が好きなものに囲まれた環境を手に入れることができたわけですから、それほどのリスクを冒したわけでもありません。世の中毎日タバコを買ってお金を煙にしている人だっているのに、それからしたら形に残るものが手元に残るだけ無駄になってない、とすら言えます。豊かな暮らしが何なのか、と言うのはハタには良くわかりませんが、自分の中の心の叫びであった
「ニトリとユニクロとダイソーだけの人生は嫌あああああ」
という部分がそこそこ解消されただけでもやってみてよかったな、とは思っております。でもニトリやユニクロが悪いわけじゃない。いろいろ背伸びをした挙句、自分には無理!ってなったとしてニトリの世界に戻ったって良いわけです。その時にはニトリはお母さんのように暖かく私たちを迎え入れてくれるはずです。人間いつかは母から離れないといけない時がある。
いや、母から離れてこそ母のありがたみがわかるのです。遠くにありて思うもの、それがニトリでありユニクロなのです。
そう言えば今腎臓ってどれくらいで売れるんでしょうね。
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