ニューエイジでした(前編)

皆さまご機嫌麗しう。こちらは自宅待機6週目のニューヨークです。流石に4月も末になってきて、数字の上では危機的な状態はそのまま、と言いながらも日常生活自体にはそれほどの危機感を感じることもなく、流石にダレて来た、を通り越してもういいよね?というフェーズに入って来ました。今週に入って建築業などはすでに自主的に再開の準備が始まり、一部の店舗なども地味に再開の準備を始めているところが見受けられます。流石にこのまま経済を止めたままにするわけにも行かないので、恐らくこれからしばらくは各自自己判断で動く、という方向に流れていきそうです。


そんな中。ニューヨーク在住のこちらの知り合いからとある情報をいただきました。何やらその筋の人たちには今静かに流行っていると言う某酵母。それが今日本からアメリカに向かって空輸で届けられるらしい、と。作り方などの情報をテレビ会議方式で教えていただけるので、参加しませんか?と大変お気遣いをいただいてお誘いいただいたのですが。


ごめんなさいその辺あんまり興味なくて、、、


まあハタもたいがいな好事家なので、オカルト・ニューエイジは大好きなネタなんですが、基本ハタはその辺の事象をあくまでも「観察対象」としてなま暖かく眺めているタイプの人間なんで、ニューエイジ世界に入り込んでそこで何かを共有しましょう、という領域にはなるべく入らないようにしているのですね。動物園で動物を柵の外から眺めるのは好きなんですけど、トラとかゴリラみたいな猛獣の間に割って入っていくほどの情熱はないです、と。

狂気の動物愛


だからと言ってニューエイジ系の代替医療や民間医療を頭っから否定して、何でもかんでも西洋医学が正しい!と言うのもどうかな、とは思っています。実際ハタの叔母は産後に健康を損ねて結構深刻な腎臓病になりましたが、透析などせず漢方薬で5年くらいかけて完治させたのを見ておりますので、場合によっては東洋医学の方が良い、と言うことすらあるのはわかっているつもりなんです。


でもまあハタはまあ過去にその動物園の檻の中に足を踏み入れてみたこともあったんですよ。割と珍獣ばっかり入ってるニューエイジの檻に。でまあそこで得た経験が今に活きている、と。


ということで今日はその時のお話をしてみたいと思います。


まあハタがニューエイジ系のアレな様々なものに興味を示したのは予備校時代。予備校の英語の先生が変わった方で、英語の授業そのものがすでに「考えるのではなく感じるのです!」みたいなお前はブルース・リーか、みたいな内容だったんですが、まあハタも変人が好きですから、割とあっさりとその先生と仲良くなったんですよね。そしたらその先生が実はキネシオロジーを日本に始めて紹介した第一人者だったんですよね。


キネシオロジー。今となっては日本のニューエイジ・ヒーリング業界ではかなりのメジャーな方法論になっておりますが、その当時はその存在すら知られていませんでした。その当時、キネシオロジーを日本で教えられる資格を持っていたのが日本で2人とか、3人くらいで、その内の一人がその予備校の英語のI先生だった、と。


実際理論的なお話を聞くと非常に面白いわけですね。感情と肉体、そして人間の経験が全てリンクしている、という発想自体はホリスティック医学ではごくごく普遍的な発想ですが、個人個人が抱える問題の原因を過去の体験や感情に起因すると考え、キネシオロジーで開発された「テクニック」を駆使して被験者を一種の退行状態に置き、その過去の傷を「癒す」ことによって現状を変えよう、というキネシオロジーの考え方は当時のハタにはとても興味深いものに思えました。

本文には全く関係のない画像


でもまあぶっちゃけそこに近づいてみた理由、っていうのは中二病的な自意識ですよね。自分が他人を癒す技法を持っている、なんて魔法を知ってるみたいでなんかかっこいいじゃないですか。自分が特別だと思いたい、何か人とは違う特別な才能を持っているはず、というハタのひねくれた自尊心をくすぐるには、このキネシオロジーは十分に魅力的だったのです。


なのではハタは実はキネシオロジーの技法を日本で最初に習得した人間の一人となりました。


そんなこんなでとりあえず大学に入学した後、その予備校の英語のI先生が主催するキネシオロジーの講習会に参加しました。その時は確か講習、と言ってもわずか数人だったように覚えております。


なんだかんだ言っても25年近く前のお話。今から比較したらこういうニューエイジ系セラピーはほとんど認知されていませんでした。当然その当時アメリカら輸入されてすぐの状態だったので、テキストは英語から日本語に翻訳されてはいるものの、本などになっているわけでもなく、ただ大量にコピーされたプリント用紙ををバインダーで挟んだだけのものでした。今はもうちょっとちゃんとしたものになっているのでしょうか。


でまあ、それを使って実際に人の今の感情(まあ主に今感じているフラストレーションですが)がどこからきているのか、原因が何に起因しているのかを筋肉反射テスト、という今で言うところのOリングテストのようなもので調べていくわけですね。


で、問題が起因したであろう時に「退行」して、その時の感情や感覚を解放させてゆく、と。そして今度はそこにポジティブなイメージを植え付け、そして退行状態から今の世界にまた戻ってくるわけです。まあこれだけ聞いてるとほんとニューエイジの王道ですよね。


実際にはその当時はレベル1から10まであり、日本で教えられるのはレベル7まで、と言うことで

ハタは実際にレベル1と2を受講したわけです。まあ本当に初級の段階ですが、一応認定書もありますから、実際にこの技術を使って何かヒーリングのようなことをやってお金をもらっても問題はない、ということなんですけれども、まあそれで何かをしたことはありません。実際他の方は真面目なので、さらにステップアップしてレベル7まで到達し、さらにアメリカに渡って最高レベルに到達する旅に出かけられる方もいらっしゃったようです。


実際講習会の時にはお互い参加者がそれぞれセッションをやってお互いが施術者と被験者を体験するのですが、人によってはやはり過去の辛い記憶が蘇ることもあり。場合によっては阿鼻叫喚

でもニューエイジ的アプローチで考えると、この過去の辛いトラウマの記憶、というのは癒してあげなくてはいけない、ということで施術する方も必死で対応するわけです。ハタが実際にやってみたセッションというのは人生を通じて数回程度ですが、それでも人間やっぱり嫌なことを体験していない人はないんだな、としみじみしてしまうくらい、みなさん心に辛い思いを抱えておられていたのが印象的でした。


とはいえ何度かセッションをやって気が付いたことがありました。確かにこういうテクニックで過去のトラウマを改善することはできるのかもしれない。実際スッキリすることもあります。でもその一方で、そうやって薄皮を一枚一枚剥がしていくと、結局は


最終的に絶対こじ開けてはいけないパンドラの箱


の存在が見えてくるわけですね。これはどうしたものか、と。そして実際ここの部分を触られて平気な人、というのはいないわけですね。意識的にあれ無意識的にであれ必死になってそこには触れられないように抵抗するわけですよ、自分も含めて。でもそこに根本的な原因があるのもわかっている。


人が抱えている心の闇の一番暗い部分。


多分ここをつつけばこの人の問題は解消するかもしれないけど、つついたと同時に爆発して向こうも相手も木っ端微塵。つまり存在は見えているが触った段階でアウト。まさに地雷です。


そういうその人の心の地雷をチラチラと眺めながら、そこら辺に落ちている小さなトラウマという小石を拾って見たところで、やっぱり視界には一番のラスボスである地雷が目に入るわけです。ここを取り除いたらこの人の人生はきっと楽になる、でもこれに触れた段階でゲームオーバー。そこまでの危険を晒して自分が他人の心の中に干渉すること自体、果たして正しいのだろうか?


自分で必死になって蓋をしていた傷。ようやくやっとかさぶたになりつつあるのに、そこを掻きむしったらまた血が出てきてさあ大変。阿鼻叫喚のセッションの練習中に、ハタは思ってしまったのです。


癒しだのヒーリングだの言ったところで、結局そういう小手先の技術で解決出来るような問題は、そもそも大した問題ではなく、その個人が抱える根本的な問題の原因には指一歩触れることはできないのだ、と。そしてその一番深い問題は、誰も他人に触ってほしくない傷の中にあるのだ、と。


癒しだのヒーリングだのと言いながら、人に一番触れられたくない部分を軽々しく触ろうとすることの傲慢さ。そしてそんな心の深い部分の傷に思慮なく手を伸ばしてさも自分がその人を救ったかのように振る舞うことの図々しさ


ハタに人を癒すなどという資格はないな、と。


なんかそういうものが見えてしまって以降、ニューエイジには距離を置いて今に至ります。

当然ハタとは異なる意見の方もいらっしゃると思いますし、それが間違っているとも思いません。

人によっては全身全霊をかけて他人のトラウマを解消するために活動していらっしゃる方もおられると思います。そういう方の献身は本当に素晴らしいと思います。ただ、ハタにはそこまでの責任を持って他者の心の問題を扱う根性は自分にはない、と思った次第です。


こういう話をしていくと、最終的には「人は人を救えるのか?」という非常に難しい問題に近づいていくわけですが、そうやってある程度ニューエイジ思想から距離を置いて、改めて人の救済、とか癒し、ということを改めて考えてみたら、最終的には宗教がその役割を担うのでは、という答えに至るような気がします。ニューエイジが宗教か、というのは難しいところですが、個人的にはニューエイジは宗教のダイジェスト版だと思っています。お手軽、お気軽、効果薄。


それだったら最初っからまっとうな宗教に救済を求めた方がよっぽど効果あるんじゃね?と。


確かにニューエイジって楽なんですよね。あんまり修練とか試練とかないし。バチも当たらないし。「神的存在の力」を全て「波動」だの「パワー」に置き換えてお手軽に使用可能。しかもそれが無尽蔵と来たもんだ。そりゃあそういう世界で癒しごっこをしてたら楽しいでしょうよ。でもねえ、


バチの当たらない波動なんて大した波動じゃないっすよ(ぼそっ)


人を呪わば穴二つ、っていうじゃないですか。人の人生に影響を及ぼすような強烈な力(波動)、って、多分人を呪い殺すのと同じくらいのパワーが必要だと思うんですよね。ニューエイジにそこまでの力があるか?って言われたら、無いんじゃないかなー、とハタは思います。



ということで前半終了です。

まさかの後半に続きます。








































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