文章を書くなんて久しぶり。文章を書くのは嫌いではないのですが、このブログを始めるに当たって、どうしても書いておきたいことがあったのです。それは自分が今まで聞いてきた音楽について。ハタは十代の頃からあんまり他の人が聞かない音楽を聞いてきました。それは40を半ばになってもそれほど変わらず、ひっそりと自分の世界に閉じこもって自分が愛する音楽を一人で聞いてきました。でもその音楽の素晴らしさをいつか皆さんに知っていただきたい。そしてその素晴らしさをこの世界のどこかに残しておきたい。ブログを始めてみようと思ったのはそういう思いがありました。
そして「どうしても書いておかねばならない」と強く思わせてくれたミュージシャンの中にJeremy Dutcherがいます。とはいえ長年活動してきたミュージシャンではなく、本格的に活動を始めたのはここ数年、初アルバムはなんと2018年という若いミュージシャンです。ですがこの人の音楽を聞いてハタは「どうしても皆さんに知ってほしい」と強く思ったわけです。
まずはビジュアルからご覧ください。背景には山を背景にしたインディアンの姿、その横にはピカソの抽象画を思わせる人物が描かれています。そして机の上には蓄音機、足元には蝋管が転がっています。そしてその蓄音機にまっすぐ顔を向けるのがJeremy Dutcherその人です。フォーマルなシャツの上に民族の意匠のついたジャケットを着ています。このビジュアル、今まで何の気なしに見ておりましたが、このブログを書くために改めてよくみると彼の出自や音楽のコンセプトををそのまま明確に表現しており、このビジュアルを作り上げた写真家/デザイナーの力量には驚かされます。
ハタは高校生の頃から民族音楽を聞いてきました。その当時はバブルの頃でしたから、日本にもお金がありました。なので当時日本のビクターが「JVC World Souds Series」と銘打って世界中の民族音楽をデジタル録音してCD化したシリーズが50タイトルほどありました。ちなみに監修は大橋力。別の名前を山城祥二。かの芸能山城組の生みの親です。高校生の頃は毎月お小遣いでこのシリーズを1枚買うのが習慣になっていました。
その時に聞いた「音楽」というものはロックやポップスとは程遠い、ましてリズムや音程すら不確かだけれども、何百年とその地方で歌い続けられた音の塊のようなものでした。そしてそういう「過去の音楽」は、ロックやポップスの波に飲まれて近い未来には消えていくだろう、という暗い運命を背負っていました。文化人類学的な記録、というのはそれがすでに過去のものであり、やがて消えて無くなるであろうという前提を抱えている段階で非常にノスタルジックでほろ苦いものとして存在します。それは民族の消えゆく音楽を採譜して歩いたバルトークの時代から全く変わっていません。こういう過去の遺物として記録として残された「音」は、すでに失われた、またこれから失われるであろうという前提をもってハタの目の前に現れ、そして耳に切なく残りました。そしてその異郷の音楽の儚さは、また同時にとてつもなく美しいものとしてハタの記憶の中に刻まれていきました。
ところが21世紀を超えた頃に世界同時多発で新しい動きが始まりました。民族音楽や大衆音楽を始めとするローカルな音楽が突如アップデートを始めたのです。分かりやすい例を挙げてみると2005年ごろから始まったバルカン・ビートの勃興。ハタは当時まだ脆弱だったインターネットを駆使しながら訳も分からずこのムーブメントを一人で追いかけていました。そこで起こっていたのはローカルな音楽のデジタル化によるアップデート。バルカンのやかましくて鈍臭い音楽がスカやダンスミュージックにアップデートされて凶暴で野蛮な力をもった音楽に変貌していきました。
ローカル音楽とはそれまでマイケル・ジャクソンやマドンナといったポップスターの音楽が最善とされる世界においては最もダサくてカッコ悪い音楽、でもそれはそこに住んでいる人の心の奥底を掴んでいて、みんな本当は大好きなんだけどそれを公言するのは憚られるような悪魔の音楽だったはずです。それは日本だと演歌がじじばばの音楽で若い子はそれを好きだとは絶対に言えなかったのと同じです。ですがその音楽の力は凄まじく、日本人の心を掴んで離さなかったのもまた事実。ローカル音楽はそういう民族の「血」ともいうべき最も深い部分に根付き、そしてそれ故にそこから離れたくても離れられない「呪い」としてその国の人たちの心に存在し続けるのです。余談ですが、日本の戦後のポップス、特に1970年代以降のポップスは、その「ローカルの呪い」を否定するか、その呪いからいかに遠ざかるか、その方法を必死で模索した結果だとハタは考えています。そしてその結果が渋谷系というジャンルに帰結する訳ですが。
ローカルな音楽であればそもそも著作権が存在しません。誰がいくらコピーしても自由です。それがデジタル化を通じて大量にコピーされ、魔改造され、ダンスミュージックの方法論を従えてより凶暴に、より悪魔的な魅力を伴って戻ってきたのです。それは音楽機材のデジタル化による、「第三世界」と呼ばれるような地域にテクノロジーが浸透した結果でもありました。
この「ローカル音楽のデジタル化によるアップデート」はメジャーな音楽の隅っこの方でほとんど見向きもされませんでしたが、
世界中でひっそりと、でも熱狂的に広がっていきました。特にその力が強かったのは今までメジャーの音楽の世界では無視されてきた東欧や元共産国の国々です。ハタは結構本気でそのエリアで新しい音楽を作っているミュージシャン達を追いかけていました。友達の小さなパーティーやロサンゼルスのスタジオでなんちゃってDJをするときには必ずこの辺のミュージシャンの海賊版の音源をかけて周りの人をポカンとさせていました。これがだいたい2005〜2009年くらいの事でした。
(まさかのその2に続く)
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