ということで皆様ご機嫌麗しう。
とは言え暑いですよねえ。麗しいとかそんなもんじゃない。
でもハタも頑張ってきたんです。なんの因果かこんな暑い時期にわざわざ砂漠に。
まあ正直言いますと、家人の冠婚葬祭です。しかもハッピーじゃない方。
家人の父上がお亡くなりになりまして。享年89歳の大往生でした。後半2年ほどは老人ホームと病院で過ごされたものの、それ以外はアリゾナで70年以上過ごされた方でした。
もともとハタがこの小さなネット通販を始めようと思ったのは、アメリカのミッドセンチュリーモダンが日本では若干おかしな方向で理解されているというか、その本来の姿が正しく伝わってないというか、そういう微妙な違和感を感じたから、なのですが、この家人の父上の世代だとまさにアメリカのミッドセンチュリーをそのまま自分の時代として生きた世代の人たち。この時代のアメリカ人がどんな人生を辿っておられたのか、それはそれでとても興味を持っておりました。
ミッドセンチュリーモダンはアメリカの20世紀の文化として最も輝いた時代ではあります。しかしその時代の前は決して明るいものではありません。家人の父上は1930年のオハイオ州生まれ。プレーリーと呼ばれる大草原が広がる穀倉地帯です。そこに1935年に巨大な災害が起こります。サンドストームと呼ばれる砂嵐です。その地域の農業は壊滅的な損害を受けます。この災害は今でもブラック・サンデーと呼ばれ、アメリカの歴史でも最も苛烈な災害の一つとされています。
そもそも1930年代というのはアメリカにとってはそれほど良い時代ではありません。1929年からの大不況を引きずったまま1930年代に突入し、食うや食わずの状態の時に穀倉地帯がこの惨状。そこに住む人は移住を余儀なくされました。
アメリカで何か問題があると敗者復活のチャンスを求めて西に向かうのはある意味お約束だったわけで、オハイオ州で砂嵐の被害にあった人たちはチャンスを求めて西に向かいます。その行き先が砂漠の真ん中のアリゾナ州はフェニックスだったわけです。砂嵐に追われてやってきた場所が砂漠、というのは時代の皮肉とは言え冗談がきつすぎるように思いますが、この時代のアメリカ人はそれを受け入れて新天地で生きることを選んだのでしょう。日本で考えるとどういう状況だろう?と思うのですが、一番近いのは北海道や満州の開拓に行った人たちの感覚に近いのではないかと思います。
フェニックスは1930年代にはすでに大都会だったようですが郊外に行くとこんな感じだったんでしょうかね。
そうこうしているうちに1940年代。日本の皆さんもご存知の通り第二次世界大戦がやってきます。実質上第二次世界大戦はアメリカでは真珠湾を除いて本土を攻撃されるということはなかったので、日本の戦中のような苛烈な状態ではなかったでしょうが、それでも戦時中として人々の暮らしに暗い影を落としていたのは間違いありません。そして終戦。日本では戦争から解放され、すこづつ復興の兆しが見えてきます。人々の暮らしもようやく明るさを取り戻しつつあったでしょう。それはその当時のアメリカ人も同じように感じていたのだと思います。
アメリカのミッドセンチュリーモダンはこう言った「暗い時代」の後にやってきます。カラフルでスタイリッシュなデザインは、暗い過去からの決別、そして新しい未来への希望としてアメリカ人の生活を彩るために作られたものです。この時代で頻繁に利用される光の輝きを表現した「スターバースト」はまさに未来への光、そしてその新しい光としての原子力を象徴するものとして登場します。広島で使用された原子爆弾が新しい時代の象徴としてアメリカのミッドセンチュリーデザインの源泉となった、というのはいささか言い過ぎかもしれませんが、そうした原子力に代表されるような新しい科学の楽観的な面がその時代のデザインに反映されていることは間違いありません。
しかしやはり光があれば影があります。それはデザインの面には直接現れませんが、1950年代のアメリカには日本にはない「影」があります。それは朝鮮戦争。日本が朝鮮戦争で特需を得たのはありがたいことですが、その一方でアメリカ人は朝鮮に出兵。多くの犠牲者を出します。家人の父上も例に漏れず朝鮮に海兵として出兵されています。恐らくその当時のそれほど豊かではないアメリカ人が自分の故郷を出て国の外に出る唯一のチャンスだったのでは、と推測します。同時に戦後もしばらく継続された人種差別政策。恐らく私たちが当時のアメリカに行くことができたとしたら、白人のアメリカ人とは同席できないでしょう。アメリカのミッドセンチュリーの輝くデザインの裏では、こうした仄暗い歴史が隠されている、ということを知っておくと、そのデザインを見る目も変わってくると思います。
そして韓国戦争も終わり、兵士として戦場に駆り出された人たちは再びアメリカの地に戻ってきます。家人の父上が戦場から戻り結婚されたのが1957年。結婚式の写真はカラーで撮影されていました。おそらくアメリカでもカラー写真はそれほど普及していない時代です。
そして黒人解放運動がより本格的になっていきます。時代はようやく私たちが見慣れている世界に近づいていきます。実際のアメリカはこの後もベトナム戦争、そして中東戦争へと戦争を継続しますが、1930年代生まれの人にとってはもうそれは新聞の世界の出来事になっていたことでしょう。この頃からこの世代の人たちにとってはようやく穏やかな生活が続くようになります。家人の父上もアリゾナの砂漠を歩いて調査するというお仕事に携わり、穏やかならも奇想天外な体験をされたようですが、またそれは別の機会に。
アメリカのミッドセンチュリーモダンを作り上げた工業デザイナーの多くも世界大戦中に従軍しています。彼らが遺した美しいデザインの裏にはそう言った歴史の仄暗い部分があったということ、そしてその暗さを体験したからこそのあの輝きがあるのだとハタは考えます。とは言ってもその輝きは本当は偽りだったかもしれません。それでもその偽りの輝きが今の21世紀の私たちには今でも美しいものとして目に映るのは素晴らしいことだと思いますし、ハタはこれからもこれらのデザインをアメリカの黄金期の遺産として眺めることになるのだと思います。
長くなってしまいましたが、家人の父上の人生を軽くなぞりながらミッドセンチュリーモダンの背景をちょっとだけ紐解いてみました。
砂漠の山々を眺めながらここで何十年も過ごした人たちがいる、そしてその人たちが若かりし頃にその人たちの生活をちょっとだけ華やかにしたものがある、と考えるとこれらのなんでもない品物がとても意味があるものように見えてきます。古物が好きな人はこうやって一人でニヤニヤしながら古いものを眺めている、と思って襖の隙間からこっそり眺めていただければ、と思います。
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