冥土の道行

マメ科の植物っぽいですがきれいですね


皆様ご機嫌麗しう。こちらはまだまだ自宅待機中のニューヨークです。とはいえもうすでにお外は春。絶賛春。そしてもうすぐ初夏、ということで流石にもう自宅に篭っているのもいい加減嫌になって来た、という皆様は各自マスクをつけて活動開始、という感じです。まあある程度湿度も気温も高くなってくると必然的にウイルスの活性も低下するそうなので、これからしばらくは様子を見つつ再び社会生活に復帰していくのが現実的かな、と思います。


まあそんなわけですので大したネタもなく。

いや、ネタはあるんですけど、正直言ってこんなところに書いておいて良いものやら、という人生の大ネタがあるのはあるんですが。人によってはあんまり読みたくないお話だろうしなあ、と思うんで、ここ数日どうするべえか、などと思案していたのですが。


でもまあここに書いておくのも記録としては良いかもしれませんね、ということで。

何を勿体ぶってんだ、と言われそうですが、ハタの気の迷いもご理解していただければと。まあぶっちゃけ言いますと、


親が死んだ


わけですねえ、ええ。父親の方ですが。なのでこう、普段のようにテンション高めの楽しい文章を無理やり書くのもちょっとしんどい。とはいえネタとしては大ネタなのでちょっと書いておきたい気もする、ということで、だらだらと書いてみようと思います。辛気臭いお話が苦手な方は今回のブログは飛ばしていただくのがよいかも、ですね。


とはいえうちの父。すでに認知症になって7年。すでに「入ったらもう2度と外には出られない病院」に入院して2年ほど。認知症は大体発症から8年以内でお迎えが来る、というらしく、それを考えるとそろそろ逝ってもいいタイミング、だったわけで、不慮の事故とかそういうのではなく。一月前から肺炎で病院から「そろそろですね」と言われており、先日ついに「今日が山場」と言われて母が面会に行ってその晩に息を引き取りまして。あまり苦しんだ様子もなく、それはそれでよかったなあ、という事なのですが。


お医者さんの「もうそろそろ」宣言が出てから一月ありましたので、その間はごくらく亭さんのアドバイスにより父の預金を移したり、葬儀屋さんやお寺に前もって連絡したりして、という時間がありましたので、まあある意味心の準備はできておりました。

2年間うちの父をお世話していただいた病院の皆様には心より感謝申し上げます。




でもまあ、よりによってこのコロナ騒ぎの最中ですよ。


ハタ、現状で実家に戻れません。


まあ一応飛行には乗れるんですけどね。現在週一便程度はアメリカと東京を行き来している便がありますから、まあそれにお願いして乗せてもらうことは可能なのですが、そこからが大変。2週間隔離の後に公共機関を使わずに南京都の実家まで帰らなくてはいけません。なに、ヒッチハイクでもしないとダメなの?みたいな感じですが。まあヒッチハイクでもダメですけど。徒歩か?東海道五十三次ですね


そして運良く2週間の隔離機関を経たところでうちの父がうまいこと「ほな行ってくるわ」と言わんばかりにあちらへ旅立つ、というスケジュールも立つわけがなく。


で、帰ったとしても高齢の母と叔母たちに会うわけで、これはちょっと無謀だわ、と。

同じような理由で青森に住む姉夫婦も参加を断念。自分は良くても高齢者を相手にするのはさすがに今のご時世は危険、と判断するのが妥当でしょう。ましてうっかりアメリカ直輸入のウイルスなんかが広まってしまったらほんとシャレにならない。


で。


「父親の葬儀にも参加できないなんて!お父さんごめんなさい!親不孝を許して!


と涙を流しながら身悶えするとなんかこう、家族愛、っていうんですか?ドラマティックでいいですよね、と思うんですけど、


ぶっちゃけそういうのもなく。


まあボケてすでに病院に入ってましたしねえ。その段階でぶっちゃけ社会的にはすでに死んでるのと同じ。お見舞いに行ったとしても出来ることといえば生物的は死んでないよね、というのを確認する程度。お見舞いに行っても向こうは3分で忘れるし


どっちにしたってここまできたら時間の問題、って言うのはわかってましたし、何せ海外生活なので、そんなタイミングよく日本に戻ることはなかなか難しいですから、親の死際に間に合う可能性は低いよな、と覚悟はしていました。が。


まさか葬式すら参加できない、とは。


悲しいとかどうとかいう前にただただ唖然とする、というのが正直なところ。まさか自分が親の葬式にまで参加できない人生になる、とはハタも想像しておりませんでした。


じゃあものすごくお葬式に参加したかったか?と言われたら、


ぶっちゃけそれも微妙。


もうね、もの凄いのがいるんですよ、親戚に。ハタが小さい頃から父は他の姉弟と仲が悪かったんですよね。っていうか実質上うちの父は他の姉弟からは盛大にバカにされており。バカにされついでに父の子供であるハタ姉弟も格好の攻撃のネタに。小さい頃から嫌な思い出しかないわけです。なので、葬式に出たらまたあいつらに顔を合わさんといかんのか、と。まあ最近では一人は要介護で施設入り、もう一人は同じく認知症で今年の春から施設入り、一人はすでに20年ほど前から行方不明、だったので、タイミングがよければ後一人さえアレしてしまえばあいつらと顔を合わす必要がない!という淡い期待を寄せていたのですが、


現状最後の一人がまだピンピンしてやがりまして。


うわーめんどくせーあのきっついおばはんと顔合わさんといかんのかー、でもまあこれで最後やからにっこり笑って「今後お付き合いは一切お断りしますね❤️」って言ってお別れして塩でも撒いておけばいっかー、などと思案していたのですが、


コロナ騒ぎを口実に母が参列お断りの電話をしまして。


コロナもたまには役立つじゃねーか、と。まあその分自分も参加できずに終わりましたが。でもまあ葬式に来てたらあのおばはんは絶対金をせびりに来てますから。顔は合わさないほうが良いのは確かです。


ということで結局今後一切顔を合わせずに済んだわけで、まあこれはこれで良かったな、と。

うちの父グッジョブ。


とはいうものの。コロナのせいで親類縁者はともかく自分の子供も帰ってこない。最初からお葬式は簡素に家族のみで、という方針だったにせよ、さすがにちょっと気の毒。


ハタとしても世の中の事情とはいえ自分の親のお葬式に参加できないのはやはり何か居心地が悪いわけでして。だったら遠隔でもなんでもせめて自分が納得のいく形で父を送り出すのが良いだろう、ということでハタも考えました。


結局子供が葬儀に来ないとなるとお通夜もどうしても母が一人で面倒を見ないといけないことになります。さすがに一人で徹夜、というのは高齢者には厳しい。


でもよく考えれば日本でお通夜をしている時間帯はニューヨークだと時差でちょうど昼夜逆転。だったらこの時間帯に蝋燭をつけて形だけでも供養しておけばお通夜の時間帯をハタが面倒みたことになるんじゃない?と。その間に母はゆっくり寝てもらったら良いのでは、と。ということで母に連絡してまさかの日本とニューヨークを跨いだお通夜を行いました。 ごくらく亭さんのアドバイスに従い、果物とお花を買って父の写真の周りにお供えをします。蝋燭は以前近所のお店で入手していた、本来は30ドルくらいするはずなのにレジを打ち間違えて10ドルで売ってくださった蜜蝋のキャンドル。しばらく使い道もなくただおいてありましたが、こんなときに使えるとは。10ドルで売ってくれたあのカフェーのお姉さん、ありがとう。おかげ様で父に灯火を供える事ができました。あなたがクビになってないことを切に願います


お線香がないわけでもないのですが、家人は煙の匂いが苦手。いろいろ調べてみると良い香りがするものであれば線香でなくとも良いのでは、というお坊さんの意見もあるようなのでそちらを採用。同じく数日前に偶然届いたアロマキャンドルをお供え。生前の父は基本糸の切れた凧のような人で適当にふらふらとどこかに出かけてなかなか帰ってこなかった人だったので、ここはやはりしっかりと神仏に監視をしていただかないと、ということで地蔵菩薩の印仏をそばに置いて監視体制を強化。セキュリティもばっちりです。この際ですから寄り道せずにきっちり三途の川を渡っていただきます。


まあそれっぽくはなった


最初は供えた花も左の百合の花だけだったのですが、ありがたいことに家人のお友達がわざわざお花を送ってくださいまして。ちょうどお通夜挙行をした頃に花が届いたので、こちらもお供えしたところそこそこ豪華な感じに。こういう時の恩は身に染みますね。


でまあ、母に「とりあえずこんな感じで蝋燭つけておくから」ということでこの画像を送ったところ、母からこんな写真が届きました。



なにこれすごいー


実家の8畳の客間の半分が生花で埋め尽くされており。正直ハタもここ15年ほどまともに日本のお葬式に参加した事がないのでわからないのですが、今はこんな感じで花を贅沢に使ってくださるのでしょうか。これだったら多少参列者が少なくても立派に送り出した感があります。ほんとありがたい限りです。


ということで日本でお通夜が行われている時間帯はハタがニューヨークで蝋燭を灯して1日を過ごし、日本でお坊さんが来られる頃に無事に終了しました。その後は一応youtubeで臨済宗のお葬式で唱えられるお経をプレイ。ハタも気分的にはそれっぽくお葬式に参加した気分を味わう事ができました。


父は自分の人生の全てをテニスに捧げたテニス選手でした。国体も何度も出場しましたし、テニスの種類が軟式テニスだったのでオリンピックこそ出ませんでしたが、全盛期は日本ランキング2位まで行ったので、まあ確実にオリンピッククラスのアスリートでした。アマチュアのアスリートの競技生活というのはそれは厳しいものですから、その分家族は色々と犠牲を強いられたので、良かれ悪しかれいろいろな思いとエピソードがありますが、とりあえず家族内で決めていたのは


死んだ時はテニス選手として送り出してやろう


という事でした。それがハタ家の父の「あるべき姿」でしたので。


なので父はいつものようにテニスの練習着を身に付け、ラケットを抱え旅立ちました。

今頃楽しく昔のテニス仲間とテニスをしてたらいいなー、と思っております。



改めて、今回色々と相談に乗ってくださったごくらく亭さんには感謝申し上げます。



ということで次回からはまたいつものくだらない駄文を皆様にお届けします。











































このブログをお友達に教えて、お友達も綺麗にしてあげましょう。イオナ。私は美しい。